2012年5月7日月曜日


人類混迷の二十一世紀からの脱却

(一)二十一世紀は人類混迷の時代

 

 二十一世紀に突入した。この世紀を読者のみなさんはどういう世紀だと捉えるであろうか。私は、過去の人類の歴史を振り返ったときに、きわめて危機的な状況がやってくると確信している。危機的な状況を打開していくには、今おこなっている「教育」がきわめて大切であり、本当に二十一世紀を乗り切れるたくましい人間を育てていくことができる「教育」をしているのかということを学校現場の私たちが愚直に、率直に、真剣に、絶え間なく、ぶつかり合いながら、考え実践していくことが重要なことだと思う。そして、教育改革を上からのものではなく、学校現場から主体的に発信していく必要がある。そうでないなら、真の教育改革はあり得ないだろう。しかし、今学校は、先生は大丈夫なのであろうか…。そういった� ��とを考える余裕、雰囲気、意識があるだろうか。

 先ほど危機的な状況と言ったが、具体的にどういう状況が考えられるかあげてみたい。

 

○環境問題…特に地球温暖化、ダイオキシン、オゾン層破壊の問題(オーストラリアの人々に皮膚ガンが多く発生しているそうだ)…。今自動車業界も必死で開発している、環境に優しい車、ハイブリッド車はまだガソリンエンジンを使って電気をためている。完全な電気自動車は後十年くらいはかかるそうだ。水素自動車は実用化されつつあるが燃料費がガソリンの四倍以上だそうだからまだ普及しないだろう。地球温暖化防止京都会議(COP3)を開いても先進諸国の消極的な態度には落胆させられる。二酸化炭素排出量を何年までに何%減らすことを確か決めているはずであるが、日本は未だ増え続けている。(ある閣僚は三.五%削減できたと言っていた)我が国として温室効果ガスの総排出量を「『二〇〇八年年から二� ��一二年の第一約束期間に一九九〇年レベルから六%削減する』ことを内容とする京都議定書の採択に合意したことを踏まえ、そのため必要と考えられる地球温暖化防止のための取り組みを積極的に推進していく」としているが大丈夫であろうか。

 排出枠を取り決め、今度はそれを取り引きしようという。アメリカの何でもビジネスにしてしまおうという姿勢は憤まんやるかたない感情に浸る。

 

○とどまることを知らない科学技術の発達…コンピュータ技術(どんどん縮小化・超高速化・大量情報化)・クーロン人間(今のところ法律で禁止はされているが技術的には可能である)・ヒトゲノムの解読・遺伝子操作。

 IT革命と称して、政府はコンピュータの導入に専念している。そして、学校にコンピュータ教室設置である。それ自体は大いに歓迎すべき事であろうが、(コンピュータは障害を持っている方には大変有用な道具である)、コンピュータを使える人間を育成しようというのであろうか。アメリカに追いつき追いこせであろうか。コンピュータは今やどんどん使いやすくなってきている。使い方を覚えさせたところで十年後は役に立たないはずである。また、コンピュータ自体も三年が寿命である。三年経てば、また新しいコンピュータを入れてくれるのであろうか。教員個人のコンピュータは今一部の市町村をのぞき、個人持ちが多い。なぜ教員の使うコンピュータを個人持ちにとどめておくのであろうか。言うまでもなく、必要� �費なのである。


どの程度のクランチ

 さらに、コンピュータを使うことでどういう人間を育てようとしているのかいっこうにはっきりしない。それを考えるのが学校の役目であるというのは余りにも本末転倒な無責任なことではないだろうか。その結果、膨大な分野にわたって教員の労力が使われてきている。情報教育、環境教育、安全教育、同和教育、教科としての教育、総合教育、勤労生産的な教育、性教育…。何でもかんでも学校へ持ち込めば事足りたかのようである。学校現場では火の車である。教員が足りない。しかし、教育行政は教員の数をできるだけ少なく、効率的な教育を推し進めようとしている。「教育」の性格からして、そもそも効率的な「教育」などと考えるのが間違いなのであるが…。そして、第一段階としてはTTの導入である。さしあたっ� �の対策である。現場ではどう対応しているのか。当然授業では二人の教員が進めていくので学級の実態はもちろんのこと、一人ひとりの学習の歩み、授業をどう進めていくかと言うことについて綿密な打ち合わせが必要になってくる。果たして、その時間は確保されているのであろうか。確保されていないとするならばTTの導入も現場では無理だと言うことなのである。しかし、先生方から無理だという声さえ聞こえない。十分なのであろうか。今や先進諸国においては、二十人学級になっているのが常識である。しかし、余りにも教育行政の対応が遅いのである。政府の対応や認識が鈍いのである。これはいったい何を意味しているのであろうか。

 コンピュータは便利な道具であるが、一歩間違えれば危険な道具である。他人のコンピュータに不正に侵入するハッカー達の存在。プライバシーの問題。コンピュータウィルスの侵入。情報の盗み出しや、データの改ざん。電子商取引をめぐるトラブル。悪質なコンピュータ犯罪などインターネットの急速な普及に伴って様々な問題が噴出している。さらに、ある特定のコンピュータに入り込むためのパスワードはすでに第三者に解読されていると言えば大げさであろうか。ご存じのように、電化製品は多少なりとも電磁波を出している。コンピュータも然りである。キーを叩き出すことにより電磁波も変わってくる。その電磁波の変化を解読することで何のキーをたたいたのかを知ることができるのである。一二八bit SSLによる非常に強力な暗号化通信の採用もあるが、それももしかすれば解読されつつあるのかも知れない。いやもうすでに解読されているのかも知れない。まさに、技術と技術のいたちごっこが展開されているのである。

ここで恐ろしいことは、人間は科学技術を人間の幸福のために使ったが、同時に不幸のために使ってきたという過去の事実を忘れてはならないということである。さらに言えば科学技術によって、「人類」(人間)の問題は解決しないと言うことである。


大学の専攻は何の仕事で行くか

ここで私が危惧していることは、遺伝子コピーによるクーロン人間の登場である。そして、遺伝子操作による優生学上の問題である。扱い方を誤れば、大変なことになっていくと言うことは自明のことだろう。「クーロン人間」の人間が次第に成長していく時、「私は、一体誰から生まれ、私という人間は、一体誰なのだ」という根本的な問題にぶち当たるのだ。しかし、その時どう説明できよう。自分と同じ人間がまだ沢山いるのである。(全く同じというわけにはいかないが、環境等によって性格は変わってくるはずである)クローニングで生まれた子は、遺伝子を分けてくれた「生物学的な親」がいて、代理母を使った場合は、「おなかを痛めた親」がいて、さらに「育ての親」がいる場合がある。こういう複雑な親子関係や姻戚・� ��戚関係をどう理解し、整理し、自分なりに納得していくのか。さらにこの宇宙でたったひとり、唯一の存在である私はその時、崩れ去ることになる。明らかに精神に異常をきたしてしまうのではないだろうか。

 また、優生学上の問題では、世に優秀と言われる「遺伝子情報」のみのくみ換え操作をした場合である。貴方はこういう遺伝子を持っているので将来的には○○パーセントの確率で発病する。そのことを宣告するかしないかという問題もある。個人個人の遺伝子情報の管理をどうするかという問題も残る。また、何らかの障害が遺伝子上で発見された時、遺伝子を組み替え、より「一般的に優れたと言われる遺伝子」を組み替えていく。本来の貴方という存在は一体どこへ行ってしまったのか。基本的人権の侵害である。そもそもこういう技術が発達していくと基本的人権というものをどう考えていったらよいかという問題が残る。

 

○日本経済の動向…アメリカの経済不況を受け、日本経済も大きな打撃を受けている。バブル期以降の株価の暴落。過去最高の失業率。日本銀行は、金利を下げるがそんなもので歯止めすらかからない日本経済。賃金カットによる消費の手控え。銀行による不良債権処理。その結果、赤字決済になる銀行…。日本経済は今後どうなっていくのであろうか。 

 

○少子化問題…それに伴う年金制度改定。老後の問題…。

 

○核抑止力に頼っている平和均衡の問題である。アメリカではすでに弾道ミサイル用の迎撃ミサイルが開発されている。中国では、軍事費の増強政策を採っている。これが現在の平和維持の手段なのである。本当にこう言うことでいいのだろうか。私たち教育に携わる者は、こういう問題にも関心を持ち、それを教材化し二十一世紀を担う子ども達に何を伝え、学ばせなければならないかを真剣に議論していく必要があるのである。

 

(二)学校現場からの教育改革

 

 先に述べたようにそれを打開していく一つの方法は、「現在の教育のあり方」を真剣に考え地道に実践していくことにつきるのではないかと思う。このような危機的な困難な二十一世紀を乗り越えるたくましい人間を育成していくために、今どういう教育がされねばならないだろうか。また、「自然」「宇宙」に対して、人類がもう一度「畏敬」の念を持ち、「人間のあり方」を真剣に追い求め、人間が踏み込んではならないはならない領域をしっかりときめていかねばならないだろう。そうでなければ、人類は科学技術の発達とともに、人類滅亡への道をたどることになるのである。すばらしい「地球」そして地球上に生息するあらゆる「生物」たちを人類自らの手で滅ぼす権利は与えられてないのである。


多orginizationは何ですか

私は、特に「教育」に視点を置いて今目の前にいる子どもたちの学びの姿を見ながら、次の六つのことを提言し終わりにしたい。そして、この提言を私自身の戒めとし、さらに精進したい。

 

 (一)「教育システムの柔軟化」

 具体的には、小学校六年間、中学校三年間、高等学校三年間の併せて、十二年間を義務教育とし、六・三・三制の廃止。かわりに、四・四・四制を試行する。(理由)現行では、思春期にさしかかる時に小学校六年間が終わり、中学校への大きな環境の変化にギャップを感じたり、抵抗を感じたり、不安を感じている子ども達が大勢いる。思春期の子ども達の心を安定させてあげたい。そのために環境の変化はできるだけさけたい。また、高校進学率九〇%を越えている現状では、高等教育まで義務教育にするか、希望すれば、誰でも高校に入れるようにしたい。また、高校に特殊教育(特別な教育を必要とする生徒対象)が出来るスペースと機会と予算付けが必要である。テストで縛られ、知識偏重のペーパーテストの弊害から� ��ども達を救わねばならない。

 

(二)小学校・中学校で子ども達に自覚させたいこと…それは、「自分は、すばらしい力がある」「自分ってすばらしい」ということである。自分自身の良さをしっかりと自分で認め、自覚し、それを自分で伸ばしていけるように教師は援助しなければならない。そのことが自分の命や他人を大事にすることにつながっていく。

 

(三)教師の意識改革

○どんな子どもでも、無限の可能性を秘めており、問題児はいない。子どもが問題なので はなく、教師を含め、大人に問題があるということの意識変革。

○子どもを評価する目を幅広く持つことが必要。教師の視野の狭さが気になる。

○担任自身の指導のいたらなさを子どものせいにしてはいないだろうか。一人ひとりの能 力には差があるのに、差があることがいけないことだと錯覚している。いくら漢字を練 習してもなかなか覚えられない子がいる。一方では、ろくに勉強もしないのにすぐ覚え る子がいる。後者の子を「出来の良いすばらしい子」とするのであろうか。前者のよう な本当に援助を必要としている子には、「もっとがんばれ。」の励ましとは言えない残 酷な言葉で終わってはいけないはずである。援助を必要としている子にもっと力を注ぐ べきである。更に言えば、前者の子には、別の課題が用意されるべきであろう。

○「子どもに課題を持たせる」前に教師自身に課題があるのか、せっぱ詰まる問題がある のか。裸で前向きに授業をしているのかどうか。

○学級王国に浸る教師がまだ多い。全職員の目で一人ひとりを見ているという自覚。

○安易な方向に流されやすい教師集団(効率よく、楽に、情報に埋もれる、自身の生活に 埋もれる)結果、「担任イヤ症候群」「難しいことイヤ症候群」に陥った教師はいずこの学校へ転勤するのか。

 

(四)校長・教頭のリーダーシップ

校長・教頭のリーダーシップと教職員のやる気はかなり相関関係があるように思う。校長は学校の中心者である。任期は少なくとも五年以上。「事なかれ主義」や自分の立場名誉にすがっている校長は降格もいいのではないか。リーダーシップをとれない管理職が多いような気もするが気のせいか。何がそうさせているのだろうか。管理職登用のあり方に本当に問題はないだろうか。

 

(五)指導主事の役割


 指導主事になる教員は一般的に力があると言われている人たちだろう。しかし、学校現場から教員を指導主事にすることは出来るだけ控えたい。つまり、指導主事の数が多すぎるのではないかということである。なったら、二〜三年で学校現場へ復帰させられないだろうか。学校現場は、今強いリーダーシップが求められているのである。学校現場は今混沌としていて、覇気や気迫は薄れつつある。指導主事になった者は、各学校へ行き共に学ぶという姿勢で当日の授業研究のみでなく、その前から研究に携わりたいものだ。指導主事の見方も研究に即した型どおりの見方で、そこから脱していこうという人は少ないように思う。しかし、一方の学校現場からすれば、もっと事前から指導を仰ぎ事務所に出向くということを怠って� ��ならないと思うがどうだろうか。

 

(六)給与体系の見直し

 年功序列型を廃止。前向きに努力している教師に優遇措置をとることが大切だ。それが、平等ということではないか。国家公務員の給与体系の見直しはすでに行われている。この年功序列型の給与体系は現代社会において時代にそぐわないものになりつつある。

 

  さらに具体的に 私の思い

 

○授業改善…教室の中に子どもが光る、生きている、目を輝かしている、表情が明るい、先生も楽しく、しかし、厳しく追究している。沈黙があり、ざわめきがあり、た  め息があり、驚きがあり、歓声があり、そんな授業にしたい。

 ・自分の授業スタイルはどうなっているかの吟味→そこから新しい授業スタイルの確立 →スタイルの切り崩し→新しいスタイルの確立(この繰り返しが重要ではないか)

 ・十分な教材研究をして授業にのぞんでいるかの吟味

 ・子ども一人ひとりを理解しようとしているか。

 ・誰にでもできる授業をしているのか、いないのか

 ・自分たちの生き方を問うているのかいないのか

 ・一人ひとりに厳しく立ち返っているのか、他人事か

 ・集団で学ぶ喜びを感じているのか、いないのか

 ・教師自身のあり方に厳しいのか甘いのか

 ・教師自身どう生きようとしているのか、無難に生きようとしているのか

 

  ○講師指導助言等という研究会では本物は見えてこない。共に学びあってこそ、本物  が見える。研究会もそうでありたい。三十年も前(イヤもっと前からか)の研究会の  進め方を未だに突き破れないのはなぜだろうか。研究会の在り方が今問われている。

 

 ○校務分掌は一人一役。

 

 ○校務分掌は二年〜三年で必ず替わる。

 

  ○教材研究の時間を勤務時間に確保する。明日の授業研究に没頭できる体制づくり。  
教師の本命は 授業である。しかし、毎日の煩雑な仕事に追われている教師も多い。 

 

 

 

 

 

 まとまりのないことを書いてしまった。ここまで読んでいただいた読者の方に改めてお礼を言うとともに、読者と共に考え実践していこうと思うので忌憚のないご意見を聞かせていただければありがたい。先に述べたように、書くことで私自身、「戒め」を自ら負い、私自身の在り方を更に深く問うものである。 

 

             (二〇〇一.三.五)

 

 

 

 



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